素敵なお中元・・・!?

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先月は数々のサプライズが♬ まずは生徒さんたちがこぞって七夕の短冊🌠に『ヴァイオリンが上手になりますように』『ヴァイオリニストになれますように』(笑  大きく出たなぁ;)と書いたのだそう^^ 鞭・飴・鞭・鞭 となかなかキツいはずのレッスンの中で、ただむやみに厳しくしているワケじゃないことがちゃんと通じているのかなぁと疑似親心がホッコリしました。長く険しい道のりの中、達成感の喜びや純粋に音楽を好きな気持ちでこの先も乗り越えてってほしいです。

そしてもう一つ、超お耳の肥えた音楽ツウ文化人の方から身に余るCDレビューを頂戴しました。光栄すぎるお言葉を下記ご紹介させていただきたいと思います。名付けて” 素敵なお中元 ”  !!

 

『澤菜穂子のPassione』

S.キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」に、サルの姿をした我々の遠い祖先が、狩で仕留めた動物の骨を手に、獲物の肉を捌き、敵を倒し、逃げる敵を威嚇するが如くそれを岩に打ち付け、ついに骨が宙に跳び上がるというシーンがある。宙に舞った骨はスローモーションで大写しにされるのだが、回転しながら飛んでいくうち、それが宇宙船に変化する…。「技術」というものの進化を象徴するこのシーンは、「美しき青きドナウ」の旋律や、宇宙を音もなく航行する宇宙船の映像と共にいつまでも記憶に残るのだが、澤のCDアルバム「Passione」冒頭のバルトークを聴いたとき、なぜか私の脳裏にはこのシーンが思い浮かんだ。私たちの祖先は、生きるための「道具」として偶然発見した「骨」をある時、何の目的もなく擦り、叩いてみた。するとそのかすれ音や轟きは、これまで経験したことのない驚きと陶酔を心にもたらした。人類が初めて「有用なものを求める」という行動から遊離した瞬間だ。そう、澤のヴァイオリンは、それなのだ。人類が出会った初めての驚きに再び遭遇させてくれるのだ。ガットを強烈に引っ掻く弓使いから生まれるあの力強い響きと轟き、枯れ木をこすり合わせるときに生じる心を絞り込むような軋り音は、我々の祖先が焚火を囲んで聴いた原初の「音楽そのもの」ではないだろうか。そこには、とてつもない高揚感と底なしの切なさが同居していたのだ。
ヴァイオリンという楽器は表情がとても豊かだ。のびやかで気高くどこまでも澄んだサロンの音色も、家畜と乾草の匂いがプンプンする力強くも哀愁の溢れるロマのそれをも醸し出すことが出来る。ドイツ語ではヴァイオリンをGeige(ガイゲ)という。私は初めてこの単語が音楽大学の学生の唇から発せられたとき、「なるほど」と妙に納得したものだ。「秋の日のヴィオロンの…」ではなく、擦り、引っ掻く「ガイゲ」なのだ、バッハの無伴奏は…。澤の奏でる楽器はガイゲである。
バルトーク、パガニーニ、ピアソラとどの曲もそういった澤のアプローチが活きているが、私は特にヴィターリの「シャコンヌ ト短調」を推奨したい。これを聴くと、次は是非バッハ無伴奏をと、どうしても期待してしまう。以前ご本人は「音大生なら普通に弾くことは出来るけど、本当に弾くというのはとても難しい」という趣旨のことを仰っていたが、今回ヴィターリを聴いて、それは彼女の謙遜に過ぎない、と確信した。彼女のガイゲなら、この楽器の真骨頂たる軋み音を手懐け、バッハの野生を蘇らせてくれるに違いない。
ショーソンの「詩曲」はこれほどまでダイナミックな作品だったのかと思わせる。小説を読む愉しみの一つに、主人公と読み手の私が融合して、まるで様々な出来事がわが身に起きているかのごとく心が右に左に揺り動かされるという作用があるが、「詩曲」の演奏を聴いている時に私の五感があじわうものはこれだ。
澤の武満は、澤の中で一種独特だ。「妖精の距離」という標題も謎めいた滝口修造の詩に触発されて生まれた曲であるが、澤の演奏は決して日陰を作らない。「白日夢」という言葉があるが、それだ。だが神秘性を失っていない。何だか矛盾しているが、谷崎の陰影礼賛を思い起こさせる。もしこの演奏に映像を付けるとしたらホワイトとブラックのみだろう。蜷川実花の写真のような「総天然色」は似合わない。澤というのは不思議な演奏家だ。あれほどまでに攻撃的なのに、武満の前では実に従順なのだ。
ピアソラについては、もう何も言うまい。涙を堪え、澤の演奏にじっと耳を傾けるのみだ。ありがとう澤さん、ピアソラの心をこれほどまでにしっかりと甦らしてくれて。
そしてピアノの三浦さん、澤さんのとんでもない個性をしっかりと受け止めて頂いて、心から感謝申し上げます。

 

S様、非常に励みになるクリティークを誠にありがとうございました。おかげさまで文月もモチベーション右肩上がりで乗り切れそうです! そんなこんなで親愛なる皆様へ暑中お見舞い申し上げます🐟